2008年08月28日

当社、大蔵永常に聞く。

■はじめに

   大蔵永常(1768-60)とは、江戸時代の3大農学者のひとりです。
  あとのふたりは、元禄時代の宮崎安貞(1623-97)と幕末同期の佐藤信淵(1769-46)
  です。各人を学ぶにはネット検索でご随意に調べられるがよろしかろうと思う。
   さて、大蔵永常は教育者で有名な広瀬淡窓と同じ豊後の国(大分県)日田
  の出身です。彼の特長は農民のために尽くした農学者であったことです。


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  天明(1783)の大飢饉
  名前は聞いたことがあるけれど何が
 どうなったかを知らない方に説明する
 と、その前の年の暮れから、関東より
 北のほうで、まだ冬というのに変に暖
 かく、菜の花が咲き、タケノコがでた。
  年が明けて春になると、日本中異常
 な寒さ、おまけに雨が降り続けて稲が
 育つことができなかったわけです。
 このことがあって、天候にも負けない
 農業のためには学問が必要と、16歳になった永常はお寺に学びます。


  学問不要論
  当時の考え方に、百姓や町人の子どもには学問はいらない。そんなことをするひま
 があったら、そのぶんだけ、自分の仕事に精出したほうが得と考えられていました。
 永常の仕事はハゼロウつくり、父親の言いつけでまたもとの仕事に戻されました。


  家出の決意
  13か村624人の血判状率いる庄屋穴井六郎右衛門の一揆が1724年にあり、世の
 中をよくする方法を見つけない限り、飢饉の悲劇はいつになってもなくならない。
 まよい、まよい、まよいぬいたあげくの決意が、自分の本当にやりたい目標でした。
 放浪の仕事は、堤防や道路の修理、読み書きの初歩を学んだ手紙文の手間賃です。


  江戸時代の農民
  江戸時代には農民の移動は禁止されており、旅を続けるうちに、土地ごとに農業に
 違いのあることをしりました。土の色、硬さ、使う肥料、作物、農具・・・上手もあれば
 へタなやり方もある。百姓の移動がない分、情報がないわけです。ただし、これには
 他人のまねをしないという、失敗が許されない百姓頑固説の一説も付きます。
  旅の成果は、肥後熊本の名君細川重賢の「ハゼの木」の藩の産業振興、薩摩鹿児
 島の砂糖つくりを学んだことです。


  成果の伸展
  農業技術を身につけた永常が向かったのは当時の商業都市大阪です。
 大阪の商人は、損得に敏感で非常に用心深く田舎育ちの若者を相手にしません。
 そして行き着いたのが自分の考えを本にまとめること、「農家益」だったわけです。
  やがて、砂糖づくりの技術書の本を出版しようとしてよこやりがはいります。
 薩摩藩は当時、家老に調所笑左衛門を据え、奄美大島の砂糖造りで莫大な利益
 をあげていたからです。今でいう権力の圧力に屈せざるを得なかったのです。
  これがのち、維新回天の原動力になったのは有名です。
 


  蛮社の獄
  さて、そこで知り合ったのが三河田原藩江戸家老渡辺崋山というわけです。
 渡辺崋山は当時高野長英や佐藤信淵らと尚歯会を作って進歩的な考えのする人
 で、大蔵永常の人物を見て、田原に行って農業指導の依頼をします。
  大阪と江戸に住まいを持ち各地を歩き農学者として著書の執筆に、実践がない
 永常にとってこれまでの実績を証明したい気持ちで引き受けます。
  ハゼの木でロウを作る。10年の計画を話すと誰もみなそっぽを向く。
 そんな中5年目に蛮社の獄で崋山が捕らわれの身になるのです。



  浜松藩
  三河田原藩からひまをだされ生活困窮のとき、浜松藩主水野越前守が、自領の
 農業振興のため指導者をほしがっているという話が舞い込んだのはそのあとです。
  水野忠邦といえば、老中主座としてあの渡辺崋山を罪におとしいれた張本人です。
 渡辺さまにはあまりに不義理かと思えど、武士には武士のおきて、町人には町人の
 生きかたがある。わたしがつくすべき相手は、天下の農民たちなのだ。・・・
  誠に武士の世界は上からの命令に弱い。あの水野越前守が老中主座をやめさせ
 られ、国替えになったのです。勤めて3年、まことに短いやりかけの仕事に終わった。

  ・・・ 
  それからのち、自由な著作家として江戸に住み暮らした。
   
Posted by モリロ at 06:01Comments(0)TrackBack(1)■はじめまして